昭和を代表する建築家・村野 藤吾氏が設計を手がけた志摩観光ホテル。
志摩観光ホテルは、物資の乏しい時代に村野氏がかつて手がけた三重県鈴鹿の海軍工廠高等官集会所の柱や梁を移築して建設されました。ホテルのデザインは自ら手がけた「叡山ホテル」がモデルとなっています。村野氏は亡くなる直前まで鉛筆を片手に設計活動に従事しており、大阪上本町の「都ホテル大阪」(現在のシェラトン都ホテル大阪)は93歳の作品です。設計した建物は多岐に渡りましたが、とりわけ近鉄系列の仕事が多く、ホテルの中で最初の作品が京都・蹴上の「都ホテル」(現在のウェスティン都ホテル京都)でした。「志摩観光ホテル」は戦後間もない時期に竣工した60歳の時の作品です。
華麗なる一族「山崎 豊子」先生が愛したホテル。
「陽が傾き、潮が満ちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる。」これは小説「華麗なる一族」の冒頭文です。昭和30年(1955)から平成19年(2007)まで、幾度となくホテルをご利用いただきました。
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賢島・志摩観光ホテルの歴史
御食つ国「志摩」
三重県は広く海に面し、海の幸には大変恵まれたところです。中でも、志摩地方は、その種類も豊富で、古代には「御食つ国」、すなわち天皇の食料を献上する国として知られていました。「万葉集」には、大伴家持が詠んだ歌で「御食つ国 志摩の海女ならし真熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ」という歌があります。この歌の意味は「小舟に乗って沖へ漕いでゆくのが見えるが、それは志摩の海女であろう」というもので、「御食つ国」が志摩の枕詞として使われるほどでした。
賢島
昭和4 年(1929)
賢島と神明村は、わずかしか離れておらず、潮が引けば歩いて渡れることから「徒越え島」と呼ばれ、それが訛って「かしこじま」になったと言われています。昭和4年(1929)に土地開発会社の設立と志摩電気鉄道が開通した際に「賢島」と表記されるようになりました。
鉄道の開通
昭和4年(1929)
昭和4年(1929)に「鳥羽駅」から賢島の「真珠港駅」(昭和44年(1969)廃止)を結ぶ志摩電気鉄道が開通。それに合わせて賢島駅が整備され、賢島は真珠養殖事業の資材基地としての役割を果たしてきました。その後、志摩電気鉄道は統合合併を行い、現在は近鉄志摩線となっています。
鈴鹿海軍工廠高等官集会所
昭和19年(1944)
鈴鹿の海軍航空隊からの依頼で建築しました。戦時中であり、資材が乏しく、川喜田半泥子翁より寄付され、半泥子翁の山から切り出された松材で梁や柱が作られました。後に移築し、志摩観光ホテルとなりました。
戦後初の純洋式リゾートホテルとして誕生。(現在のザ クラブ)
昭和26年(1951)4月3日
戦後いち早く国立公園に指定された伊勢志摩地区に洋式ホテルが必要であろうという意見が三重県庁を中心に話し合われ、近鉄・三重県・三重交通が出資してホテルを建設することになりました。当時の賢島は、真珠の買い付けにくる外国人バイヤーが多く訪れていました。(客室数25室・定員48名)
新館竣工(現在のザ クラシック)
昭和44年(1969)7月22日
近代的な調度品を備えた新館が完成。国内で最大級のリゾートホテルは大きな話題となりました。竣工披露パーティーでは各界の著名人に数多くご出席いただきました。(客室数200室・定員400名)
ベイスイート開業。(現在のザ ベイスイート)
平成20年(2008)10月10日
客室の全てが約100㎡以上と国内リゾートホテルでは最大級の広さとして開業しました。(客室数50室・定員100名)